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    2009.04.16
  • posted by kenshin.

Jackson Pollock ジャクソン・ポロック ~ 重力と無意識による新時代のArt ~




彼が生み出した究極の絵画技法「ポアリング」とは、キャンバスに筆や棒などを使って絵の具を滴らせ、その色や厚みなどによって今までの手描きの絵画とはまったく異なる世界を生み出そうという技法です。 ポロックは絵の具の色や濃さ、使用する筆や棒の素材や固さなどを変えることにより、思い通りのイメージを描き出すことができました。さらにこの技法は、意識的に細かい調節が可能な筆とは異なり、無意識の状態を直接図像へと反映することができると考えられ、当時流行していたフロイトやユングの思想とも深く結びついていました。さらにその方法論は、チベットやアメリカの先住民族たちが行っている砂絵に基づくものでもありました。それはある意味、原始から伝わる宗教芸術と最新精神医学との出会いから生まれた技法でもあったのです。 「このやり方だと、絵のまわりを歩き、四方から制作し、文字通り絵のなかにいることができるのだから、わたしは絵をより身近に、絵の一部のように感じられる。これは西部のインディアンの砂絵師たちの方法に近い。・・・」(ジャクソン・ポロック)
ポール・ジャクソン・ポロックは、1912年1月28日ワイオミング州コディーに生まれました。一家は貧しく、カリフォルニアやアリゾナを渡り歩きながらギリギリの生活をしていました。それでも彼の母親ステラ・ポロックは、貧しいながらも美術への関心が高く、息子達もその影響を受けて育ち、そのうちの何人かは芸術関係の職についています。
1928年、ポロック家はロスアンゼルスに移住します。当時ロスではメキシコ人の壁画作家アーティスト、オロスコやシケイロス、リベラが活躍しており、ポロックは彼らの作品に大きな感動を受けました。そして、この時の感動が後に彼をイーゼルではなく床を用いる新しいタイプの画家へと向かわせることになります。彼は自分が目指しているのは「イーゼルと壁画の中間」に位置する作品である、と述べています。
1930年代に入り、ポロックはニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグに入学し、トーマス・ハート・ベントンという画家のもとで学び始めます。懐古趣味的で牧歌的な作風をもつ彼の師は、後のポロックの抽象的、前衛的な作風とは対極に位置する存在でしたが、意外なことに二人の師弟関係は、その後長く続きます。彼は師の作風を否定するように自らの作風を育てて行きますが、人間的な部分では固い信頼関係ができていた様です。

1933年、ポロックが学校を出た時、アメリカはまさに不況のどん底にありました。働き口もろくにない状況ではプロの画家として食べて行けるはずもなく、彼は政府が用意した芸術家救済プロジェクトで公共建築物に作品を提供しながらかろうじて生活をなりたたせていました(この芸術家を守るプロジェクトがなければ、ジャクソン・ポロックという天才は世に出ることはなかったかもしれません。このへんが日本との大きな違いでしょう)。








1936年、ポロックはかつて彼が感動させられたメキシコの壁画作家シケイロスが主催する「実験工房」に参加します。そこでスプレイガンやエア・ブラシ、特殊塗料などを用いる新しい絵画技法を学んだ彼は、後に自分が始めることになるポアリングの大きなヒントをつかみました。
翌年ポロックは、ロシアから亡命してきた前衛芸術家ジョン・グレアムと知り合います。彼からフロイトやユングの思想を学んだ彼は、無意識が生み出す芸術の意味について理解を深めて行きます。そして、これもまた後に彼のポアリングに大きな影響を与えることになります。 さらに、当時アフリカの原始的な芸術に大きな影響を受け、新たな作品に取り組んでいたピカソもまた、ポロックに大きな影響を与えました。この頃の彼の作品は、イーゼルを用いた油絵の具と筆による絵画でしたが、すでにその作品は後にポアリングを用いて描くことになる前衛的抽象的な題材へと変わっていたのです。 この年、ポロックはアルコール依存症を治すため、精神科に通い始めています。しかし、通院程度の治療で治るはずもなく、翌年には入院治療を受けることになります。しかし、完全にアルコールと手を切ることができたのは1947年になってからのことでした。 そんな不安定な精神状態にも関わらず、彼は着実に自らの技法を磨いて行きます。特に「具象的な形態を抽象的なものへと自由自在に変換させるテクニック」をつかむことに彼は多くの時間を費やしました。 彼は常に「描こうとするテーマにベールをかける」ことを意識していたと言いますが、そのために「ポアリング」という究極の技法が生まれたのでしょう。 しかし、この技法をマスターするには、絵の具を思い通りにしたたらせる為「重力」を手なずけるテクニックを身につけなければなりません。さらに自らの「無意識の世界」をそこに解放するというある意味相反する行為をも同時にやってのけなければなりませんでした。




1942年、ポロックはニューヨークのマクミラン画廊で行われた展覧会に招待されました。彼を招待者してくれたのはジョン・グレアムで、彼以外の出展者はピカソ、マチス、ブラック、ボナール、モディリアニなど、そうそうたる顔ぶれでした。彼は一躍美術界における期待の星となったのです。この時期の彼の作品は、ピカソのキュビズム時代のものにかなり近いもので、より抽象的に分解されたものでしたが、その後いよいよ彼の作品はポアリングの技法を含むようになります。こうして、1947年頃ついに彼はポアリングの技法を完成させ、大作を次々に発表し始めます。 「自分の絵の中にいる時、自分が何をしているか意識しません。いわば"なじんだ"後になって、初めて自分が何をしていたかを知るのです。私は変更することやイメージを壊すことなどを恐れません。なぜなら絵はそれ自体の生命を持っているのですから。私はそれを全うさせてやろうとします。・・・」(ジャクソン・ポロック)







美術界での彼に対する評価は、しだいに高まりましたが、逆にマスコミは彼をゲテモノ扱いし始めます。特にアクション・ペインティングと名付けられたポアリングのパフォーマンスは徹底的に胡散臭がられ、彼はインチキ画家のレッテルを貼られてしまいます。それに対し、彼はあえて自分が制作している姿を記録し、世間に公表するため、ドキュメンタリー映画への出演を受けます。こうして、1950年彼の制作する姿をとらえた貴重なドキュメンタリー映画が制作されました。
アメリカの抽象絵画の世界において、ついに彼はその頂点に立ちました。しかし、もともとどんなグループにも属さずに独自の道を歩んでいた彼は、ただ一人の成功者として逆に孤立感を深めて行きます。さらに次のステップへの迷いやプレッシャーも加わり、彼は再びアルコール依存症の泥沼にはまってしましました。作品的にも、一時はより原始的な黒を中心とする、まるで日本の書道のような「ブラック・ペインティング」と呼ばれる作品群を発表。退行現象ではないかと言われたりもしましたが、それはアーティストとして変化し続ける姿勢の現れでもありました。 しかし、優れた作品を発表はするものの、しだいに彼の作品の数は減り、その身体もしだいにアルコールによって、弱って行きました。 そして1956年8月11日夜半、彼は運転中にハンドル操作を誤り木に激突、自らの人生にピリオドをうってしまったのです。当然、その夜も彼は飲酒運転で、その死は来るべくして、来たものだったのかもしれません。享年44歳でした。 彼は絵画をイーゼルから降ろし、床に広げることで新しい芸術の道を切り開きました。それは古典的な絵画の時代の終わりであり、より複合的な総合芸術の始まりだったとも言えます。彼は最後の画家であり、ピカソとアンディー・ウォーホルをつなぐ重要な架け橋だったと言えるでしょう。
「作品はちょうど音楽が楽しまれるように味わわれればいい。しばらくするとそれを好きになったりならなかったり。それにしても、そんなに深刻な問題とは思えませんね。・・・」(ジャクソン・ポロック)



text by WK

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