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    2008.12.18
  • posted by kenshin.

Yuzo Saeki

没後80年を迎えた本年、特別展等を通じて、幾度となく彼の作品に触れた方も少なく無いのではないか。
大阪で産まれた佐伯祐三は、画家としての短い活動期間の大部分をパリで過ごした。その後持病の結核が悪化し、更に精神面でも不安定となり、1928年8月、フランスの精神病院で死去した。

佐伯の作品は、パリの街角、店先などを独特の荒々しいタッチで描いたものが多い。佐伯の風景画には、モチーフとして文字の登場するものが多く、街角のポスター、看板等の文字を造形要素の一部として取り入れている点が、その大きな特色である。彼の斬新で、グラフィカルな作風は、現代のデザイナーやクリエーター達にまで、ある種の影響を与え続けているという点では、極めて稀な日本人洋画家と言えるかもしれない。作品の大半は都市風景だが、人物画、静物画等もある。



「日本のゴッホ」と呼ばれるその人生は、短くも儚いものだった。
1898年、大阪市・中津の光徳寺という寺の次男として生まれた。旧制北野中学(現・大阪府立北野高等学校)を卒業後、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学。1923年に同校を卒業した。東京美術学校では、卒業に際し自画像を描いて母校に寄付することがならわしになっており、佐伯の自画像も現存している。鋭い眼光が印象的なこの自画像は、作風の面では印象派風の穏やかなもので、後のパリ滞在中の佐伯の作風とはかなり異なっている。

佐伯はその後満30歳で死去するまでの6年足らずの画家生活の間、2回パリに滞在し、代表作の多くはパリで描かれている。
1924年の初夏、佐伯はパリ郊外のオーヴェール・シュル・オワーズ(ゴッホの終焉の地として知られる)に、フォーヴィスム(野獣派)の画家モーリス・ド・ヴラマンクを訪ねた。佐伯は、持参した自作『裸婦』を、ヴラマンクに一蹴され、強いショックを受けたとされる(その後、何度か彼のもとに足を運んでいる)。事実、この頃から佐伯の画風は変化し始める。この第一次滞仏時の作品の多くは、パリの街頭風景を描いたもので、ヴラマンクとともにユトリロの影響が明らかである。




佐伯はパリに長く滞在することを望んでいたが、彼の健康を案じた家族らの説得に応じ、1926年にいったん日本へ帰国した。
2度目の滞仏はそれから間もない1927年(昭和2年)8月からであり、彼はその後ふたたび日本の土を踏むことはなかった。


text : WK

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