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    2010.04.06
  • posted by kenshin.

CASTRATO ~ Angel Voice ~




バロックオペラなどに多く見られるカウンターテナーの諸役は、本来カストラートと呼ばれる男性歌手によって歌われていたものが多く含まれる。現在では人道的な見地からこのカストラートは存在しないが、当時は絶対的な人気と権勢を誇っていた。

18世紀初頭、イタリア・ナポリで生を受けた Carlo Broschi(カルロ・ブロスキ)は、通称 Farinelli(ファリネッリ)と呼ばれ、歴史上最も有名なカストラート歌手としてその名を馳せた。 その声は甘く野性的で、それでいてとても官能的だったという。また、その音域は3オクターブ半あったといわれ、彼の美声と発声技術は驚愕の的でもあり、当時のヨーロッパ各国の新聞には「歌声を聞いた女性客がしばしば失神した」といった記事も残されている(1994年には彼の生涯を描いた映画『カストラート』が制作された)。

その後、スペイン王フェリペ5世の求めに応じてマドリードに移り、そこから約20年にわたり留まった。同王の没後、イタリア・ボローニャに隠棲。スペイン王室からの莫大な恩給を受け、何不自由無い晩年だったという。



カストラートとは、近代以前のヨーロッパに普及した「去勢された男性歌手」のことである。そもそも去勢と言う行為の歴史的起源は大変に古く、もともとは戦いに勝利した部族によって、敗れた部族の男性捕虜の生殖能力を奪い、子孫を残さないようにするために始められたとされる。最も古くからこの行為を行っていたのはペルシア人と推測されているが、去勢に関しては聖書にも記述が見られる。この様な去勢手術に対して、キリスト教会は紀元後になって厳しい戒めを行うようになるが、実際は東ローマ帝国内の要職には去勢者が多く存在していたのだとか。

一方、アラブ社会での去勢はハーレムを中心に定着しており、その役目としてはハーレムの寝所番が主なものであった。またオスマン・トルコでも、コンスタンティノーブルの後宮に膨大な数の宦官を擁しており、教会にあっては公然と去勢歌手を用いていたとされ、これがカストラートの原型ではないかと考えられている。



去勢が不道徳で、その起源が非人道的な行為であったことは事実としても、実際にヨーロッパに於いても様々な形で行われていたことは間違い無い。その目的は、拷問や刑罰といったものから病気の治療に至るまで様々であったが、実際に音楽を目的に行われたのは、スペインにおいてである。一説によると最古の者は14世紀に登場したともいわれ、歌う目的で一般化したのは1550年~1600年頃のローマといわれている。途中、イタリアを中心に教会音楽からオペラに進出し、1650年頃から1750年頃にヨーロッパ各地でそのピークを迎える。途中、ナポレオンが禁止令を出したが廃れることはなかった。オペラなどでのブームが過ぎ去った後もローマのカトリック教会では継続していたのだが、19世紀半ばには時のローマ教皇の命により人道的見地から禁止され、廃れることとなる。















そのメカニズムとは、去勢することにより男性ホルモンの分泌を抑制し、第二次性徴期に顕著な声帯の成長を人為的に妨げ、変声期(俗に言う〝声変わり〟)を無くし、ボーイソプラノ時(例えば、ウイーン少年合唱団の歌声)の声質や音域をできうる限り持続させようとしたもの。
一方で成長ホルモンは分泌されるため、身長や胸郭は通常どおり成長し、骨格や肺活量の成長などは成人男性のそれとほとんど変わらないので、声のトーンや歌声の持続力は未成年や女性歌手では遠く及ばないのである。 その音域や声質により「ソプラノ・カストラート」や「アルト・カストラート」などに分かれていた。当時作曲されたオペラでこのパートを再現する場合には、ソプラノやアルトなどの女性歌手、あるいはボーイソプラノ、成人男性であればカウンターテナーとソプラニスタで代用される。しかしながら、当時意図的に存在させた理由があるように、既成のパートではそれぞれの特色面でこれに欠ける点があり、完全な再現はおよそ不可能といわれている。


中世ヨーロッパに於いては、教会内で女性は沈黙を保たなくてはならなかったため、歌を歌うことは許されなかった。また教会内で行う演劇においても女性が参加することができず、少年では役柄の関係や声量が足りないことから、変声期前の声質を保った男性が必要とされた。そういった歴史的・宗教的背景によって、カストラートはその存在理由を確固たるものとしていった。
ピーク時、毎年4,000人以上にも及ぶ7~11歳の男子が去勢されたとの記録が残っていて、次第にその候補は下層階級へと移ってゆき、当時男児を持つ親たちは、息子の将来と自分達の老後を考えて去勢手術を受けさせようと躍起になった。実際、カストラートを目指す子供の家庭は極めて貧しい場合が殆どであったし、表面上は子供が自発的に意志を示さなければならないとされていた。この自発的というのが欺瞞であり、わずか7歳ほどの子供が将来のことまで考えて手術を受ける決心ができたとは考えにくい。一部にはそういう子供がいた可能性もあるが、一般的には将来の心理的・肉体的な葛藤を予見できようはずもなく、それが長じて親に対する深い憎しみになるケースを生んでいった。更に、当時の医療体制の未熟さや衛生環境などにより、去勢手術を受けた多くの男子の命が感染症などで失われたと推測される。さらには、去勢される対象の男子が、それより前からボーイソプラノとしての技術や音楽知識を有していなくてはならず、手術を受けたは良いが、歌手としての素養のない者も多く、親の欲求のために無駄に去勢されてしまったといってもいいような男子も多かったと考えられている。ちなみに、かのベートーベンも幼少期ボーイソプラノとして類稀なる才能を有していた為、周囲からカストラートになることを勧められたが、父親の強い反対により実現しなかった。


この様な悲惨な背景をよそに、多くのカストラートがオペラ界に進出、当時の社会現象ともなった。2~3ヶ月公演するだけで、国家元首の年俸を超える収入を得る者まで出てきた。また、当時のイタリアなどに於けるカストラートに対する女性の熱狂については、想像を絶するものがあった様だ。そもそも生殖機能を失った彼らカストラートではあるが、去勢していない男性に比べ多少劣っていたとは言え、性欲は正常にあり、性行為もごく普通に営むことが出来た。このことは、当時の女性に関して言えば「リスクの無いお遊び」の相手としてむしろ好都合でもあった。カストラートのお相手となったのは、いわゆる貴族階級の貴婦人達で、これにはそれなりに必然性もある。カストラートは貴族の邸宅や宮廷に招かれてその声を披露する機会が多かった為、そこで政略結婚や倦怠期に沈んだ貴婦人達に純粋な恋愛の喜びを与えうる存在としても重宝されたのである。中には真摯な愛を育み結婚にまで至る例もあった様だが、これらの結婚には障害も多く、当時社会的な理解を得ることは難しかった。また、彼らは多くの貴族や高位聖職者に囲われていたので、同性愛の噂は常に囁かれていた様である。


イタリアからヨーロッパへ広まったカストラート達の活躍だったが、18世紀の終わりと共に急速にその栄光は影を潜めるようになっていく。そして19世紀に入ると、もはや激しい攻撃の対象となってしまう。啓蒙主義に象徴されるフランスからの批判もあり、イタリア国内でもカストラートを批判する動きが出始める。その流れからローマ教会は、医学的な必要性の無い去勢を禁じる宣言をするに至る。これら内外の圧力に屈するかの様に、カストラート教育の殿堂ともいうべきナポリの音楽院も次第に姿を消していった。それは同時に歌唱技術教育の衰退をも意味した。この時代のフランス革命とナポレオンによってもたらされた思想は、イタリアに於ける声楽の伝統に致命傷を与えると共に、貴族的な趣味から市民の文化への流れとして、カストラートの様な軟弱な男性を受け容れる社会では無くなってしまった、ということの証明でもあったのだ。


19世紀初頭、教皇はそれまで禁じていた領内の劇場での女性歌手の舞台登場を許した。これは必然的にカストラートと女性歌手の競争を生むことになった。ナポレオンやその兄であるナポリ王のジョゼフは、去勢行為の徹底的な廃絶を目指したが、世間一般のカストラート礼賛は依然続いていた。しかし、暫くして彼らが姿を消し始めると、残った数少ないカストラートには興味の視線が集まり始める。そのころ彼らの声を聴くことの出来る唯一の場所といえば、システィナ礼拝堂でのミサしかなかったので、そこでは依然カストラートがロッシーニやベッリーニの作品を歌っていた。しかし、僅かに残った彼らの歌手としての質は、残念ながら決して高いものとはいえなかった。人びとの熱は急速にさめていくことになり、それまで近寄りがたいほどの光輝に充ち、まるで天使の様に崇められたカストラート達は、堕天使さながら無惨に地上へと引きずり降ろされてしまった。


彼らカストラートの存在そのものが悪(不道徳)であったかどうか、また宗教的教義のためとはいえ、人為的に1人の人間の人生を左右する様な処置を施してまで存在させる意味があったのかどうか...今となっては知る由も無い。人の手により作り出された「天使の歌声」は、そのあまりの美しさ故か、同じく人の手によって封印されることとなった。その禁断の歌声を一度でも聞いた者は、まるで麻薬にでも犯された様に熱狂したと聞く。すなわちカストラートとは、絢爛豪華な貴族文化の象徴でもあったのだ。

記録に残る歴史上最後のカストラート歌手は、『ローマの天使』ことアレッサンドロ・モレスキ。何枚かの録音(レコード)を残し、1922年64歳でこの世を去った。



[Reference]

CASTRATO / Andr´ee Corbiau著

カストラートの世界 / Angus Heriot著




text by wk



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