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  • Posted on
    2009.08.12
  • posted by kenshin.

HANABI



爆弾は 人の中ではねて 皆の心を病む

 花火は 人の上ではねて 皆の心を慰む

  『黄麦』  金子長治


花火師であり、また戦争体験者でもあった作者が詠んだこの詩は、花火の素晴らしさ を改めて感じさせてくれます。
ただし、一見花火を讃えるだけのように思えるこの詩も、作者本来の意図は、爆弾の製造に関係した人、ある いはそれを止むなく用いた 人たちの哀しさ、悔しさを訴えたかったのだといいます。
現代の花火関係者は、『平和な世の中だからこそ花火が 存在しうる』というこ とを断固たるフィロソフィーとし 多くの人々の心を儚くもあるが瞬間でもファンタジーの世界に引き込んでくれる。
走馬灯の様にいつ迄も人の記憶の断片に深く刻んでくれる..参考資料 花火情報館
  中国で発明され「狼煙(のろし)」として使われた黒色火薬が花火の祖先であると言われている。
鑑賞用の花火は、14世紀後半イタリアのフィレンツェにはじまる。 一説には火を吐く人形のようなものだったらしいが、その後ヨーロッパ中に広がり大航海時代と共に世界中に伝わった。
  一方日本への火薬の伝来は1543(天文12)年の種子島だが、1613(慶長18)年イギリス国王の使者ジョンセリスが、駿府城の徳川家康を尋ねたとき持参の花火を見せたという記録が残っているというのが一般に言われてきた。
さらに最近になって、その数十年前に伊達政宗公が見たという古文書も見つかっているが実際は謎に包まれている。
当時の花火は筒から火の粉が吹き出すもので、現在のような打ち揚げ花火の登場は19世紀になってからである。
1733(享保18)年、前年の大飢饉とコレラの大流行による死者の霊をなだめ、悪霊退散祈願のため8代将軍吉宗は「施餓鬼」を催し大川端で花火を打揚げた。
これが世に言う両国の花火である。川開きは納涼期間の始まりの日という意味である。その後中断を挟みながらも続いてきたが、1961(昭和36)年を最後に交通渋滞、建物の密集、川の汚染などを理由に中止が決まった。
中止を惜しむファンの声に押されて復活したのは、1978(昭和53)年の事だった。
また、花火の掛け声と言えば、「鍵屋~、玉屋~」がお馴染みです。鍵屋は初代の孫兵衛が1659年、大和国篠原村(今の奈良県吉野郡)から、江戸に出てきたのが始まりです。葦(ヨシ)の管から火の玉が飛び出す花火で身代を大きくし、4代目の元禄末期になると江戸幕府御用商に成長します。
8代目のとき、清七という大変優秀な番頭があらわれ、のれん分けを許されて玉屋を名乗ります。以降、両国の川開きでは鍵屋と玉屋が競演して人気をはくします。しかし、これもつかの間、玉屋は失火によって江戸所払いとなり、わずか30年間で廃業することになります。一方鍵屋は、戦前まで続きました。
只,廃業した,玉屋の方が,かけ声としては,現在に至る迄,伝承され、けして,鍵屋とは呼ばれていないのは,そん当時の人気も左右されていた事でしょう?
継続している物事には必ずヒストリーとフィロソフィーが共存しているが,花火も様々な時代を乗り越えて存在している。
21世紀 世界各地で,花火は打ち上げられているが,やはり 皆の心を慰む 美しい光であってほしいと切に願う...
fireworks all of the world......

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写真提供:共同通信社、リヴァー ジャーナル社

TEXT BY H.M

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