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  • Posted on
    2010.12.04
  • posted by kenshin.

未来派宣言のもたらしたもの










我々21世紀初頭を生きる者として、劇的な未来を空想する能力は携わっているのであろうか?

例えば100年後の地球はどうなっているのか?という問いに対し未来予想図はかけるのであろうか?

19世紀後半に活躍した挿絵画家 アルベール ロビダ の予告した未来や20世紀に活躍したSF 作家であるアーサー•C•クラーク、団塊の世代が夢中になった小松崎 茂の描くような空想科学イラスト等「まだ来ていない今」を空想し、その予告した物が次々と現実に変わっていくという未来への予告的な空想を働かした人々のような能力を我々、21世紀に生きる者として、過去の出来事としてとらえずに未来というベクトルに進んでいく為に必要な能力としてとらえることで、過去の事柄や価値観に学ぶべき事も多いのかもしれない。

その中でも 1909年の2月20日にパリの新聞 フィガロ紙でイタリアの詩人 マリネッティにより宣言された「未来派宣言」は非常に興味深いものである。


不幸にもその宣言は好戦的で戦争や破壊を新しい美とする部分の認識で共通していたファシズムの政治運動と結びついていき、その運動自体は衰退していくことになるが、その、画期的な考えや影響力はダダイズムの画家や、現代音楽や演劇、バレエなどに伝播し様々な影響を与え、それ以上に時代のうねりの上にこそあったものの、20世紀の人々の生活様式や考え方等を全く変えてしまったといっていいのかもしれない。



そういう意味合いに置いては「未来派宣言」は未来を空想する為の下敷き的「新しい視点」だったのではないだろうか?

我々が今や何も疑問を持たず受け入れている価値観に「若さ」や「新しさ」がある。

その「若さ」や「新しさ」に価値は19世紀にはほとんどなく、価値の高さは人生経験豊富な高年者であり、古いものは伝統という権威に支えられ,「古いもの」「伝統」 等が価値が高いものとされていた。

しかし、「未来派宣言」を行った美術家達は新しい価値観や今までに全くなかった概念を生み出し、「若さ」と「新しさ」に価値を見いだした。


権威的、古典的な美学を捨て去り宗教性や装飾性などをいっさい排除し美の感性をすべて取り去り「騒音と闘争そしてスピード」こそ20世紀の持つ新しい感性と位置づけた。

その感性を十分に謳歌し受容できるのは19世紀の価値の高さを持った老人では無く、若者であった。
なぜならば騒音も闘争もスピードもそれはパワーやエネルギーの直接的表現であったからである。

その「若さ」や「新しさ」というキーワードは「流行」という未熟で騒々しく、移ろい変わる特定の表現方式が産みだした。
「流行」とはファッドであり、まさに「騒音、闘争、スピード」というものを内包したものであった。

流行は先ず新しくなければならず、古いものには何の価値を持たせない20世紀の新しい形の消費を産み出したのである。
その例として新しい形の消費が上げられる。
人々はその流行以前は機能的に使えなくなったから買い替えるという形で消費を行ってきた。
しかし、使えなくなったから買い替えるのではなく、古くなったから買い替えるという形に消費は行われ始める。

必要ではなく、欲望の為に人々は消費を行う様になったのである。


その「若さ」と「新しさ」いう価値観のエネルギーは暴走し1920年代、30年代へと突進する、その担い手として「未来派」が期待したのはテクノロジーであった。 そのテクノロジーが産み出す自動車というものはまさにスピード、騒音、エネルギーの美を象徴するオブジェであった。
その20世紀型の美の象徴である自動車が最も素晴らしい形で走れる建造物が高速道路となり、まったくもって都市の景色を変えていくことになる。それは19世紀にアルベール ロビダが空想した未来予告の景色であり、未来予想図であった。

また、未来派の期待したテクノロジーは物質をも超越した新しい装置を産み出した。
「映画」である

映画はイメージだけで成立する世界を物質ではなく「画像」という表現で表す事に成功し、 当時の人々に全くない概念である「過去も未来も瞬時に移動する」という時間や場所に縛られるといった概念を根本からひっくり返し、バーチャルという非物質な表現を台頭させる。


この様にして若くて新しい未来は我々の良く知る20世紀型の生活様式の礎となったのである。

「美」や「価値観」は普遍的ではなく時代は移ろい変わる。
ましてや 21世紀に突入しミレニアム10'S世代に突入した私たちの生活様式は未だ20世紀の価値観に引きずられ、21世紀のすばらしい 未来像を描けずにいる。
今、まさに私たちは1世紀遡り、当時の人々が新しい価値観を産み出した「未来派宣言」等をもう一度、考えるべきかもしれない、案外と学ぶべきものは多いのかもしれません

はたして21世紀に生きる我々は100年前の人々が「未来派宣言」の様に自分たちの生きる世紀の生き方を予見し、新しい価値観を産み出した様に、21世紀の新しい価値観と歩き方にたどり着く事ができるのであろうか?




参考資料 

NHK  アーカイブ 「人間講座」

text by keso








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