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  • Posted on
    2010.07.18
  • posted by kenshin.

食と農の本質(後編) ~ニッポン農業最大の生産物~





『巨大都市の、とある消費者グループが、ある研究者に農薬公害の無い野菜類の産直を発案してきた。子供たちのためを思えば、なんとしてもここで無農薬栽培の野菜を確保したいのだという。近県で、それに応じてくれる農家を紹介してほしいとのこと。研究者がそのグループの会合に出席すると、100人を超す人達が集まっている。「こんな少人数でできるのだろうか」と、そこに集った主婦たちは皆心配そうだったが、「少人数なら少人数なりにやれますよ」と研究者は答えて具体的な話に入った。

「無農薬で栽培してくれる生産者をみつける仕事は私がやりましょう。ただし、皆さんは次のことを約束して下さい。高温多湿のこの国で無農薬栽培を試みるということは、雑草と害虫を相手に戦争をするということです。だから、この戦争を農家だけにまかせず、あなた方にも参加して欲しいのです。毎日でなくても良いので、100人を5人1組の20グループに分けて、20日に1度ずつ、農家の畑に行って除草・駆虫を助けてくれませんか?」と...。自分たちが除草・駆虫労働に参加するのだということがわかった瞬間から、会場に集まった消費者たちの熱は急速に冷めていった。今のままの生活様式を保持しながら、無農薬野菜と有機農法の収穫物だけは口に入れたいというのが、消費者の虫のいい思いなのである。

また、地域行政主催の単発的な〝お祭り〟にも似た無農薬野菜の産直にあたって強調されるのは、「曲がったキュウリでも」「形の悪いトマトでも」「多少の虫食いでも」...という決り文句。集まった消費者はその場では意識の高そうな顔をして頷く。だが、ふたをあけてみれば、かっこうの悪いもの、みてくれの悪いものは確実に残留していく。これが巨大都市の現実である。』

まるで現在のことのように思えるが、これらの文章もまた30年前に書かれたものだ。前編でも触れたが、それだけこの〝消費者エゴ〟という古い問題の根深さがうかがえる。

「減反反対」「零細農家の切り捨て」「山間地域農業の高齢化問題」「企業の農業参入(規制緩和)」「食糧自給率アップ」などなど...、現在でもこの様な問題提起やスローガンは数多く喧伝されている。特に金融危機後に「次は農業が来る!」というある種ブームの様な状況もあるが、本当の農業とはそんなに甘いものではない。ワタミやファーストリテイリングも一時農業事業を始めたが、程なく縮小や撤退を余儀なくされていることを見ても、いかに難しい事業分野であるかが理解できる。しかし、営農法人や企業の参入は、実は40年ほど前から委託栽培という形で始まっており、カゴメや伊藤園などは契約農家を確保している数少ない有名企業である。では何故「政府は、もっと規制緩和を進めるべき!」などという行政批判が囁かれているのだろうか?

本来、「売買・賃借を通じて、農業生産に長けたものが農地を利用する」という市場経済の競争メカニズムが機能しなければならないのは、言うまでもない。しかし現実には、農業生産に長けたものではなく、政治力のある者が「濡れ手に粟」の農地転用収入を得る構造になっていることが、フェアーな競争を阻害している最大の原因である。ある試算によると、毎年の農業生産額の約8割に相当する額が、農家への転用収入になっているという。

国土の狭い日本では、農業的土地利用と都市的土地利用がしばしば競合し、農山間部でも公道や大型商業施設の建設機会は、宝クジに当選するよりも高い確立で訪れる。その機会がいつ来るかは不確実だが、ひとたび転用機会に遭遇すれば、農地の価格は少な目に見積もっても収益還元価格の30倍に跳ね上がる。都市近郊でなくても田んぼ1枚(30アール)を農外転用で売却すれば、億に近いお金が転がり込むというのだ。
耕作放棄地や不在地主化した遊休農地問題は、こうした農外転用を期待してのことだという指摘もあり、農地の所有権というデリケートな問題への出口が見出せていないというのが現状である。しかも、もともと農地は地方行政管理のもと、許可無しに勝手な売買は法律で禁じられているのであるが...。この様な複雑な事情から、大規模農家や先進農家、営農企業等への農地の売却や賃借が停滞していることが、「規制緩和」を声高に訴える理由の1つとされている。しかもこうした行政批判の論調は、かえって農水省にも地権者にも都合が良いという。ここでも集団的誤謬が起こっており、要するに地権者(有権者)を擁護する動きのカモフラージュとして、この手の論調が役立っている、というものだ。


例えば、「国際化のための農業構造改善策」というウルグアイ・ラウンド農業交渉の最終合意関連の国内対策費として、約6兆円もの特別農業予算が当時(1986~94年)組まれた。ところが、その大半が公共事業や農業共同施設整備に使われてしまったのだ。農地としての価値(生産性の向上)を高めるため、土地改良や農道の整備などを行えば、そのまま宅地や大型商業施設建の設用地としての価値も高まる(アクセスや水利の良さ)。農協やJAという全国組織を通じて政治力を持った地権者(一部の零細・兼業農家)は、転売を当込んでいよいよ遊休農地を手放そうとしない。こんな悪循環から日本の農業生産効率はなかなか上がらず、耕作放棄地は平野部でも6%を超えた、といも言われている。

本来ならば、一定のルールに則った農地の有効利用がなされるべきだが、こうした状況下では市民参加型民主主義のメカニズムは存在できない。利害を異にする市民同士は話し合わず、一方的に行政に対して個別に注文や異議を申し立てるだけで、「農業用地」という公共性の高いものにまで、地権者(言い換えれば消費者)エゴが蔓延している。固定資産税や相続税が大幅に減免されているなど、普通の会社員などとは比べ物にならない優遇を受けながら、農地の整備にまで税金がふんだんに投入されている理由とは、「政治力(票田)」に他ならない。


肥沃な土地に恵まれた日本の「paddy-field(水田)」では、今後1000年間コメを作り続けても連鎖障害が起きないと言われていて、農地としては非常に優れている。この事実1つとっても、欧米では考えられないことだ。この様に大きな可能性を秘めた優良な農地を虫食い的に失ってしまう前に、農地に関する土地利用計画を策定し、住民や農家同士の話合いによって有効に利用されることが、結局は国民にとっても行政にとっても、そして消費者にとっても最も有益なのではないか。

日本の農地は、その利用の仕方次第で大化けする可能性が高い。「食糧自給率のUP!!」も、ただのスローガンでは終わらせないポテンシャルを秘めている。ある専門家の指摘では「日本農業の最大の生産物は『農地』である」という。そんな汚名を返上し、雇用や景気対策としても十分に機能することができる分野として、「日本の農業」への期待は非常に高い。




[reference]


『日本の食と農』~危機の本質~ / 神門 善久著



text by wk

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